システム管理者の眠れない夜(3)
今回は、私がNT-Committee2に入る以前のバックグラウンドについて書かせていただきます。
*一通り書いてから読み直したら、マニアとある世代の方以外にはほとんどわからないなぁなどと思ってしまいました。ご興味無い方は読み飛ばして下さい。
元々私は、制御系の会社でセンサーの開発を主務としていました。大学の専攻は応用物理だったのですが、この中途半端なジャンル(笑)のせいでナンでもやらされる、いえ、やらせていただけるという状況でした。
コンピュータシミュレーション(CAEというもの)もその一つで、構造解析をVAXやCRAY(ミニコンとかスーパーミニコンなどと呼ばれていたものですね。ちなみにスーパーミニコンとミニスパコンは別モノです)、HPなどのコンピュータを使って行っていました。ちなみに職場に、HPの世界発(?)の32bitワークステーションというのがあったのですが、そのハードディスクはキャビネくらいの大きさで、ディスクの回転(おそらく磁気ヘッドの位置)を安定させるために真空引きが必要で、使えるまで30分くらいかかったかと思います。まぁそんな感じの世界でした。
しばらくはそういったTSS中心(と言ってもユーザが1,2人しかいない)のエンドユーザだったのですが、コンピュータの進化と共に、「パソコン」と「ダウンサイジング」の波がやってきました。
技術系の社員一人一人にパソコンが支給されはじめ、一部の文書や計算がコンピュータで行われるようになりました。データの受け渡しはもっぱらフロッピーディスクで、サーバなどというものはありませんでした。
私は、ワークステーションなどコンピュータには慣れていた事もあり、職場のコンピュータの世話役的な立場で、主業務の傍らコンピュータのお世話をしていました(なんちゃってAdminのはしりですね)。
そして1992年になって、東京から長野に出来た研究所に自分の居た部隊が転勤する事になり、そこから本格的なシステム管理者としての仕事が始まりました。
最初は職場のメンバーに、どこのパソコンを使ってもらうかという事でNECのPC98シリーズが高いので、IBM PC/AT互換機のGateway2000か、新星のコンパックかといった検討をしていたかと思います。
その頃良く悩んでいたのは、『MS-DOSの640kBの壁』というものでした。海外製OSで日本語(主に一太郎というワープロ)を動作させるため、メモリマッピングの隙間から記憶容量をかき集め、色々なプログラムを動作させようと四苦八苦していたのが想い出です。私は、その頃一太郎も使ってはいましたが動作もいまいちだったので、主にviエディタライクなStevieだったかな、そういうエディタで文書を作成していましたが。(ちょっとマニア入ってます)
長野の研究所と東京の本社をどのように繋ぐのかから始まり、報告や連絡は電子化するのか、職場業務、特に印刷はどうするのか、ネットワークは使えないのかなど色々な課題に取り組んでいました。また、職場のメンバーにe-メールとはどういうもので、どう使うべきかといった講習会も開きました。
1992年頃は、社内のコンピュータ系の研究部門が慶応村井先生などが推進していたJUNETを使い出した頃で、はじめてそこでインターネットに出会った時でもありました。
ちなみにNT-Committee2が活動開始したのが1997年です。まだまだ先なので、一旦ここまでとさせていただきます。